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卵が先か鶏が先か
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卵が先か鶏が先か

"学ぶ"は"真似る"から

言葉とその言葉を操る人の人柄とは密接に関わっていると思う。では、言葉が先なんだろうか?それとも人柄が先なんだろうか?言葉は1人では生まれない。もちろん、1人で考え、自分の頭の中で思考することもできる。でも、その言葉はどこから来たんだろうか?人は自分の親や家族の言葉を真似てみるところから言葉を習得していく。"真似ぶ"が"学ぶ"の語源だと言われる所以である。

実体のない"言葉"

言葉そのものが実体として存在するというのはほとんど妄想である。どんなに一生懸命、言葉の形を捉えようとしてもそこには限界がある。例えば"蝸牛"という言葉をご存知だろうか?これは今で言うカタツムリを意味する単語だが、今やあまり使わない単語になってしまった。現在でも方言ではまいまい、でんでんなど様々な表現がされている。この小さな単語一つを見てもどんどんと言葉が変化すると言う事実を見ることができる。今使っている日本語はほんの100年前には考えも及ばなかった単語や表現があるだろう。また、反対もしかりである。もちろん、言語学者は必死にその形がなくならないように必死になって文法学で動かないフレームを作ろうとする。それでも、日本語の"れる、られる"のようにこれまでは受け身でしか使われなかった用法が、尊敬の意味で社会的に認定されるようになってきている。そう。言葉は変化し続けるのである。こちらケニアでもシェーンと呼ばれるスラング、若者の流行り言葉がある。英語とスワヒリ語という二つの言語の間で新しく生まれた言語だというが、どちらにも似ていない完全に新しい言語に近いように感じられることもある。

"私"とは誰か?

この言語の問題は"私"というアイデンティティにも適応できる。私は間違いなく私なんだけれどもその私を私足らしめているものはハッキリしない。私という人間を物理的に成り立たせている60兆個もの細胞にはそれぞれ寿命があって1日が寿命のもの、120日が寿命の赤血球や骨細胞は10年ほどの寿命と言われる。もちろんDNAという同じ情報を共有しているとはいえ、10年ほど経てば当時の私と現在の私は物理的な同一性はかなり曖昧だと言っていいだろう。もし、あの時あの本と出会わなければ、もし、あの出来事がなかったならば、あるいは、もし、あの人と出会わなければ、今の私はないと言える出会いを自分の人生の中で記憶する方も多いのではないか?それによって宗教を変えるようになれば、人はそれを改宗というかもしれないし、人生の分かれ道なんて表現をするかもしれない。果たして、その前の私とその後の私は必ずしも同じ私なんだろうか。

理想的なコミュニティ

さて、今日はこの卵が先か鶏が先かという関係に最高のコミュニティのあり方があるのではないかと提言したい。私の発言に誰かが触発さ れ、その人がまた誰かにも影響し、その誰かが私に回り回って元あった私に変化を起こす。誰が卵で誰が鶏なのか?違う。きっと私は卵であって、鶏なんだと思う。そしてそれは私だけの認識ではなく、そのコミュニティに含まれている人が皆、卵であり鶏である時、きっと美味しい親子丼ができる。いつかそんな卵でもあり鶏でもある仲間たちと、腹一杯親子丼が食べたいものだ。ちなみに、海外では親と子供を同じ料理にしてしまうなんでそんな非常識な!?という文化もあるらしい。ケニアでは随分と驚かれた。日本で生まれた親子丼的なコミュニティはもしかすると日本人の間で作られやすいのかもしれない。でもそれは海外の人とそれを作れないということを意味しない。韓国では食口と書いて家族という意味らしい。同じ食を共有して家族というわけだ。いつかうまい親子丼を世界中の仲間たちと腹一杯食べたいものだ。以上、最強親子丼コミュニティ理論でした。お後がよろしいようで。

この記事を書いた人 山本眞之亮 人の成長に興味を持ち、教員免許を取得するも、目下ケニアでサバイバル体験中。最近、人びとが織りなす調和と変化の妙味に、宇宙の神秘を感じてます。ブログ : http://truesuke.blog.fc2.com 山本眞之亮の記事をもっと読む>>