コミュニティと共通言語
たとえば同じ日本語を話していても、話が通じない人というのが出てきます。これは背景知識を共有してなかったり、向かっている方向が違ったり、同じ日本人で日本語を話していても、生まれた環境や文化的背景、あるいは職業分野などで話す言語が異なり、共有出来ない価値観などが言葉のもっと奥に生まれてくるからだと思います。その意味で、『言語』というのは、たとえば銀行マンの言語、SEの言語、オタクの言語だとか、ある人独自の言語というのが存在するのだと思います。どういうことかといえば、文法や辞書的な単語の意味ではなく、ある特定の文脈で話されたり共有されたりする価値観という意味での言語ということです。
同じ民族、同じ宗教や政治的派閥というのは、同じ言語を持ちやすい。同じ会社の人、親しい友達、家族、これも同じ言語を持ちやすいですね。
コミュニティというのは、共通の言語を持って共有していく性質があるのではないかと思います。日本が日本という国家としてまとまっているのは、ある程度の『同質性』が確保されていることでまとまりが得られているのではないか。昨今のアメリカの分裂状況は民族や人種間の軋轢が深刻化し、共通言語(英語ではなく、共有しているアメリカ人としてのアイデンティティーや背景)を失ったからではないか。現在のEUの崩壊状況においても、やはり極端な移民の流入によりこれまで築き上げてきたヨーロッパ人・キリスト教という共通の価値観・言語が崩壊し、たとえば物理的に異なる言語を話すイスラム教徒のアラブ人がパリにモスクを乱立させてしまうことにより、ヨーロッパの共通基盤が崩壊してしまったのではないか、と思います。
同じ目的や意味、共有している文化的背景、これらひっくるめて共通言語のようなものをいかに構築していくかは、コミュニティにとって重要な要素であると思います。
基本的なラインは国家形成だったり、ナショナリズム、エスニシティの分野からアイディアをもらってますが、たとえば近代フランスのナショナリズム形成は人工的なもので教育の中に、まさに物理的な意味でのフランス語という言語を導入することで成立していった背景があります。
コミュニティというのもそれと似た性質があるのではないかな、と個人的には考えています。
物理的な言語、宗教、政治的目的、経済的同盟、伝統、そういったものの総合的なアーキテクチャーというか、かなり総合的なものであると思います。なので、たとえば地方自治体的な発想や国の政策であったり、キリスト教の共同体や歴史、実践面ではITや場合によっては金融とかも底流に流れる言語の土台の上に築かれていく。
イベントだけやるのはただのサークルで、コミュニティというのはもっと人間の本質に根差した存在であるのではないかと考えています。
その上で、共通の志向性であったり、同質性、均質性が担保されることが重要であると。あまり広く、多角化し過ぎると、アメリカや欧州のように分裂してコントロールできなくなる可能性があるのかなと思います。同じコミュニティであっても、それぞれが異なる言語を話していてはいずれコミュニティの中で内部分裂が始まり、コミュニティ内コミュニティが生まれ、ゆくゆくはそのコミュニティが分離独立していく。
その意味での総合的な共通言語を持つことはとても重要なことなのではないかと思います。