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いろいろあって千手観音は東京に出向中です
コミュニティ 2018.01.18

いろいろあって千手観音は東京に出向中です

先日、国立東京博物館に行ってきた。大学院で西洋美術史について勉強している友人に案内してもらい、本館のあちらこちらの部屋を掻い摘んで回った。友人は日本美術については門外漢だと言っていた割に、思いのほか詳しくて驚かされた。やはり素人には取っ掛かりの掴みにくい展示については、誰かに解説をしてもらうことで、アクセントが付くのか喉をよく通るようになる。

分からない事に甘えて、それこそ手を取って井戸水に触らせてもらい、もう片方の手のひらに「W-A-T-E-R」と綴るように教えてくれたから、友人は、おそらくだいぶ骨が折れたのではないかと思う。それでもこちらとしては、気づく事、分かる事に感動がある。特に今まであやふやな輪郭で捉えていたものがクリアになり、理解が深まるときは尚更だ。本当にありがたい。

人によっては、また展示の内容によっては自分だけのペースで、純粋な視線で鑑賞することがいいという話は承知だけれど、美術鑑賞において自分は欲が深いのか、目の前の作品に糸口が見つかったのなら、できるだけ手繰り寄せ、踏み込んでいって理解したい。知識が浅いために乾いているという状態なのだろう。

初老の人、かく語りき

口を噤んで厳かに足を運ぶ鑑賞者たちの中で、私の理解を進めようと友人が声を発するので、それに引っ張られてか、見ず知らずの初老の方が投げ銭をするかのように突然、その博識を評価する形で会話に入ってきた。それと同時に、少しは話が通じる相手を見つけた嬉しさからか、さらに自らの知識や所感を語りだす。同じような事が以前にも何度かあった気がする。

千手観音像が3体そこには並んでいた。初老のその人の声は途切れとぎれにしか耳に入ってこなかったが、要するに「この三姉妹はわざわざ遠くから来たのだ」という話だった。そのやり取りの中で、ああこれは京都の三十三間堂の千手観音なのだなということが紐づいた。

後で調べて分かったことだが、三十三間堂の1001体の千寿観音立像のうちの5体は外に出ていて、国立東京博物館には3体が管理されているという。なんとなく海外に赴任している駐在員のようだなと感じた。お堂に1001体ビシッと揃っていることが大事なのではという固定概念はたちまち崩れる。

そもそも千手観音のその手はすべての人を救うためにあり、広大な慈悲の心を表しているというのなら、ある意味で1001体が全国各地に出向していて、三十三間堂は坐像のみで、後はがらんとしていたとしても筋は通っているように思われる。

すべての人たちの手のひらがスマートフォンで埋まってしまっても

そして初老の方は、千手観音の持物(じもつ)のことに触れた。一つひとつの手のひらに、その働きを表したシンボルが置いてある。今まで何度も目にしてはいるはずなのに、不思議なもので持物については、ぼんやりとしか認識できていなかった。40本の手がそれぞれ違う「はたらきかけ」のシンボルになっている。その多様性に心を奪われた。対象にとって差し伸べてもらいたい手がそれぞれ違うことをよくご存じなのだ。

初老の方は続けざまに「最近の人は全部コレだから」と片手で不思議なジェスチャーをして苦々しい顔をした。なるほど、スマホの事か。たしかに持物をすべてスマホに置き換えたとすると、味気ないというかなんというか、非常に滑稽な印象すら受ける。それはそれで圧倒的に高いパフォーマンスを発揮する場面もあるのかもしれないが、なにかとても偏っているというか欠けていて、どうも頼りなさがある。たとえ救ってくれたとしても心が置き去りにされそうな、そんな頼りなさだ。救いの本質というのは、どちらかといえば「アナログ」的なものなのかもしれない。

千手観音的な多様性へのアプローチ

なんにしても最近は個人的にコミュニティ形成のことばかり考えている。自身もささやかに取り組んではいるものの実に失敗が多い。それもあってか千手観音のように人と関わることができれば、それはなんと手ごたえのある事だろうと想像を巡らせた。

コミュニティを考える基本の一つとしては、お互いの「不」をお互いの力で解消することで幸福の総量を上げることにあると思う。原則、そこに勝者はいない。ただ分け合うべき「負担」があるだけなのだ。なので忙しさの盾の内に手を隠してしまうのは自然なことだ。ただ、そうなると善意の人に皺寄せがきて割を食う。そして手がどれだけあっても足りずに疲弊してしまう。そのコミュニティは魂を宿す前に衰え、死に体になる。

楽しさを分け合うことが目的のコミュニティならそれもいいが、例えば地域社会の土台ともなりうる「地域コミュニティ」等については、その傾向が顕著だろうし、結果として失われるソーシャルキャピタルは底無しに思える。

だからこそ、「その手をどれだけ必要にしているのか」を伝えたい。相手が求めているものを見極めてアプローチをしたい。闇雲に手を伸ばしたところで、面倒くさいと叩かれてしまうのがオチだ。多様な人たちのそれぞれの的を射る事が肝心なのだろう。チャンスは少ないし、数打てばという余裕もない。その相手に届けるべきうってつけの矢を間違えなく選んで、できれば一矢にて図星に命中させたい。

千手観音にはどこか機械的でシステマチックな存在だという印象があった。手の多さに物を言わせ釈迦力に手数を打ち込んで解決するスタイルなのだと思い込んでいたが、なるほど、あまねくすべての人を救おうとする存在は、さすがに多様性への理解がとても深いんだなと心を打たれた。そして、その「はたらきかけ」は片手間ではなく、それこそサリバン先生のように忍耐強く、悟りを促すために必要な言葉を手のひらから伝えるように「一人ひとりの魂への配慮」を差し伸べる事なのだ。

なにかそんなイメージをもって人と関われないだろうか。胸の前で手を合わせて拝み倒すようにお願いするだけの双手しかない自分の足りなさに、さきほどの初老の方の苦々しいものが自分の顔にも浮かんでいるのを感じた。

この記事を書いた人 関口オーギョウチ 埼玉在住。サブカルやマイノリティがつくるコミュニティに関心あり。矯めつ眇めつそこに宿る魂に触れたいなと思ってます。 関口オーギョウチの記事をもっと読む>>
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