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技術革新に見る一年戦争後の新世界
コラム 2017.06.28

技術革新に見る一年戦争後の新世界

スマホに関する社会問題が至る所で、指摘されている。良いところを認めた上でのネガティブな側面を無視してはいけないという指摘である。

でも、この問題は結局、使う人のmaturity という一言に尽きるんじゃないかと思う。かつて、太平洋戦争と冷戦を契機に"核"が大きな可能性と大きな課題を人類に提示したのと同じように。スマホは確かに個々人に所有され、より身近に感じるけれど、本質は同じなんだろう。

今も昔も技術は変われど、極論からいえば人間が"道具"を使う。問題の本質は、それを何を動機として、何を目的として使うのか?ということ。

人生という限られた時間の中で、ポルノの問題が見せるように、自分の情を満たすためにその"道具"を使うのか?それとも他の人と繋がり、その人を励まし、助け、新しいものを生み出すために使うのか…。例えば、このC-pencilもスマホなしには存在しないし、これだけの距離のある場所に住んでいる自分が、ここである意味では"世界に向かって"(と、言っても日本語という限られた範囲の読者に向かってではあるが)情報を発信できるのも、スマホのおかげである。瞬時にアメリカ、日本、韓国、ロシア、イギリス、ドイツ、ナイジェリア、タイ、台湾、カンボジア、オーストラリア、ブラジル、ウルグアイ、ウクライナ、フィリピン、ドミニカ、ウガンダ、ザンビアそしてケニアとが時差を超えて繋がることができる。ちなみに、これは私が過去数カ月の間に、スマホを通じて繋がりあった人々の住んでいるところである。

昔、某アニメに出て来たニュータイプのようなもんだろうか?と思うことがある。日本を出国する前に、ある筋から東京都渋谷区では実験的に小学校からアイパッドが全員に支給されることになったと聞いた。異なる時代の異なる環境で育った"ニュータイプ"が果たしてどのような新時代を拓いていくのか…。

もはやそれらの問題の焦点は技術の革新というツールの開発にあるのではなく、それを使う人類の倫理観や成熟度に置かれていると言っても過言ではない。

あくまでオールドタイプとニュータイプの狭間で強化人間にしかなりえない自分には、そのオールドタイプとニュータイプの間を取り持つ大きな役割があると考えたい。ニュータイプにとって人と人との繋がりはより感覚的であり同時的である。瞬時に考えたり、思い悩んだりする必要がなく情報のやり取りが可能だ。理性で持って悩む時間があれば、その時間を情報の発信と受診を繰り返せば良いのである。まるでテレパシーを瞬時にやり取りするように、LINEやFacebookでテキストをやり取りするのはまさにそんなニュータイプの姿を想像させる。しかし、そこにはかつて地上に住んでいたオールドタイプたちが、手紙で情報をやり取りしそこのメディアを通して互いを思いやり、心配し、その間(ま)を楽しんだかつての情緒はある意味退化してしまうものなのかも知れない。しかし、そこにあった彼らとは異なるタイプの繋がりには決してニュータイプには否定できない価値があるのではないかとも思う。ニュータイプが優れているわけでも、オールドタイプが劣っているわけでもない。かつて存在しなかった異なるタイプが突如として現れて来たに過ぎないのである。これからは、その互いのタイプが互いの良さを認め合い、その世代とタイプを超えた繋がり、絆、疎通が、本当の意味でのイノベーションを生み出すのではないか、と思うのである。

一年戦争は終わったけれど、どうやらまだ小競り合いは続くようである。一年戦争期そうであったように、今後も様々な思惑の中で、次々と今までありえなかったことが可能となり、その技術革新の裏で行先を見失う人も出てくるだろう。もはや、地球で生まれなかったニュータイプにとって、三丁目の夕陽的な地球への郷愁は存在しない。彼らには、これからまだ見ぬ新しい時代と、これから彼らが作る新世界が待つばかりである。しかし、そんな彼らにも地球への哀愁を捨てられないオールドタイプを安易に否定することはできない。なぜなら自分たちはニュータイプ出会ったとしても、その親も家族も実はオールドタイプ出身だったりするからである。

多くの血が流れた一年戦争は終わり、これからは量産化された紋切り型のザクやジムに乗る一様の作業が失敗なくできる兵隊たちが世界を作るのではなく、例え人間的には未熟であったとしても卓越した白い巨人を操る特殊な個性を生かした個人が、新時代を切り開いて行くのである。

果たして私にとっての白い巨人とは何か。強化人間の私にはまだ見えないけれど、例えボールで戦い続けることを強いられたとしても、死にさえしなければ、その経験が最後には、この戦乱の世を生き残ったという小さな勲章とともに、後世に小さな逸話でも残れば良いなと思うばかりである。(以上の話も強化人間に見られる"副作用"からくる妄想のの産物だと見る諸説あり)爆。定期的におとずれるシナップスシンドロームに苦しめられながら、病める強化人間である私はこの辺で筆を置こうと思います。あ、そ、そらが…落ちる…ああぁぁ…。

この記事を書いた人 山本眞之亮 人の成長に興味を持ち、教員免許を取得するも、目下ケニアでサバイバル体験中。最近、人びとが織りなす調和と変化の妙味に、宇宙の神秘を感じてます。
ブログ :成らぬは人の為なさぬなりけり
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