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共食(きょうしょく)のススメ
コミュニティ コミュニティ 2017.08.12

共食(きょうしょく)のススメ

コミュニティの最小単位は家族と言えるかもしれません。では、何をもって家族というんでしょうか?血のつながりでしょうか?養子縁組は?孤児の子たちは?普段あまり考えない家族や家庭という概念に注目してみます。

コミュニティーの定義

随分と昔に“一つ屋根の下”というドラマがありました。主人公が生き別れた兄弟を親代わりになって、探していくという心温まるお話。「そこに愛はあるのかい?」というセリフが当時、流行語にもなりました。非常に高い視聴率を叩き出したことからも、この一つ屋根の下に家族が集うというコミュニティのあり方は一定の普遍性があるといえます。つまり、育ちは違い、性格も異なり、過去の痛みがあったとしてもそれを乗り越え同じ“屋根の下”で住むことが、家族というコミュニティの枠組みとして示唆されています。ところで、海を越えたお隣の国、韓国では“食口(シック)”と書いて家族という意味になることは以前にも書きました。(同サイト“卵が先か鶏が先か”参照)決して出自は違っても、文化は違っても同じ釜の飯を食えば家族というわけです。ちなみに、英語のFamilyの語源は一説によれば“Famulus”という奴隷や召使いを意味する単語だそうです。親族以外だけでなくともに住む召使いまで家族に含めるというニュアンスでしょうか。家族のあり方一つを取ってもいろんな考え方があってもおしろいですね。

手づかみのノスタルジア

ここで話を進めるために、ケニアでの一つの印象的なエピソードを紹介しようと思います。ケニアでよく食べられるものの中で、ウガリというコーンミールやキャッサバの粉をお湯で練り上げて作られたペースト状の主食があります。ウガリはペースト状のため普通、現地の人たちは手で一口サイズにとりわけ、食べやすくコネあげて同じ皿に盛りつけられた野菜やメインの具やスープと一緒に食べます。日本では手で食べる食べ物としては、おにぎりやお寿司などがありますが、最近ではうまく包装されていたり、お箸などを使って直接手で食べる機会には遭遇しませんね。ケニアに訪問する外国人たちの多くも、そういった環境で育ったせいか、たとえ同じウガリを食べても現地人と同じように手で食べたりはしません。ナイフやフォークがあるにも関わらず、手で食べるなんて、なんとUncivilizedなといったところでしょうか?また、ケニア人は揚げられた魚を、身も骨も文字通りす・べ・て食べてしまいます。最初、自分は日本人だからと、すまし顔でナイフとフォークを使って食べていましたが、時が経つにつれて、彼らの爽快な食べっぷりに一種の魅力を感じ始めました。そして、いざ手に取って、手でこねてみて、魚も骨の髄まで味わってみました。その瞬間、幼いころの記憶がよみがえったかのような、懐かしい感覚…。考えてみると、フォークやナイフを持って生まれた人間はいないわけです。幼い頃は自分の手でつかみ、そして食べます。そのうち、親から、あるいは周囲からスプーンを持つことを教わり、箸の持った姿をおだてられながら、知らないうちに、その様式に沿って食べることが自分の中の“おいしい”を形作っていきます。

“食”からの疎外

立派に文明化された私。今や私は手で食べるなんて言う“野蛮”なことはしません。…"野蛮"?果たして手で食べるという行為は野蛮な行為なんでしょうか?改めて考えてみれば、手で食べるということは、決してそれだけで劣っているということも、貧しいということも意味しません。彼らはフォークもナイフも使えるけれど、あ・え・て手で食べているわけです。答えはシンプル。手で食べるということそのものが"おいしい"から。そして、魚など細かい骨がある食べ物はむしろ手で食べるのがより一層食べやすく、食材の感触を手で感じ、自らの好む形にして食べることもできます。食べてみたことがある方は共感していただけるかも知れません。この経験は正に一種の解放。自分にとっては悟りにも似た感覚でした。食事の音を耳で聞き、目で見て、香りを楽しみ、口で味を楽しむ前に、皮膚でも感じてみる。これ以上に“食”を五感全部を用いて楽しむ方法があるでしょうか。そういう観点から見たとき、文明は人々を無知から解放し、知的な自由を与える半面で、人間を“食”や食の楽しみから疎外してきたのかもしれませんね。

共感の法則

ところで、人はどういうプロセスをもって、他者と共感できるんでしょうか?この共感はコミュニティに深い関係がある様に思います。共感とは同じ感覚や感性を共有するということといえます。脳科学の世界では、自分が具体的にその行動をしていなくても、ある行動をしている他人を見たときにその行動を見ているだけにもかかわらず、反応する神経細胞をミラーニューロンというそうです。そのミラーニューロンはまるで、他者の行動にもかかわらず、自らが同じ行動をとっているかのように“鏡”のような反応をすることからこういった名前が付いたと言います。もし、他者の行動を自分の行動として体験できるミラーニューロンというものを共感の第一歩と仮定してみると、食事の時間はたわしたちの生活の中で、この五感をフルに活用して、最も活性化させられる時間なのかも知れません。

日本社会の処方箋

最近、日本社会では個食から孤食、遂には便所飯などという言葉まで出てきました。確かに今も家族は同じ屋根の下に住んでいるかも知れません。でも、かつての様に単に一つの屋根が、家族の繋がりを保証しない時代になってしまいました。同じ屋根の下に住みながらも、別の時間に起き、別のスケジュールで生活し、別の時間に眠る現代人にとって埋めたくても埋めがたい心の隙間が生じているということでしょう。この隙間を埋めるものとして、私は"共食"を提唱します。共喰い(ともぐい)ではなく共食(きょうしょく)です。互いの目線を気にし、食うか食われるかの弱肉強食の世界で、共喰いして滅びる国となるのか、朝鮮動乱の最中でも飴玉一つを分け合った某隣国の精神ではないけれど、わずかな飯も分け合って共感を持って苦境を乗り越える強靭なコミュニティを作り上げられるか…。日本の分岐点は今や目の前に来ている様です。共に食べる。簡単なようで、当たり前すぎて見過ごしがちなところに、人との繋がりの鍵が落ちているのかも知れません。

この記事を書いた人 山本眞之亮 人の成長に興味を持ち、教員免許を取得するも、目下ケニアでサバイバル体験中。最近、人びとが織りなす調和と変化の妙味に、宇宙の神秘を感じてます。
ブログ :成らぬは人の為なさぬなりけり
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