「調整者」と書いて「にほんじん」と読む
何年前になるだろうか。私がまだ中学生くらいの頃だったと思う。同世代の外国の少年少女たちと運動会をしたことがあった。運動会と言っても、種目はミニゲーム系だったから、確か学生の交流目的で開催されたイベントだった気がする。それに参加することになった経緯はあまり覚えていないが、一つだけ印象に残っていることがある。 確か話し合いか何かをしている時だった。大して言葉も通じ合わないのに打ち合わせの時間を設けた大人たちの意図はよく分からないが、とりあえず打ち合わせをしていて意見がぶつかり、なかなか話がまとまらない時があった。
その意見を客観的に、なんとか部分的に繋ぎ合わせながら聞いていると「あっ、そこはこうして、これはそっちのアイデアを使ったらいんじゃね?」と感じる瞬間があった。だが、言葉の壁に阻まれてその考えを伝えることができず、歯がゆい思いをした。具体的な運動会の種目も、その場にいた人間の顔もほぼ忘れてしまったが、未だにそのことだけが記憶に残っている。
よく日本人は「ノーと言わない」と批判される。人の顔色ばかり気にして言いたいことを言えない困った連中だ、という意味が含まれているのだろう。一理ある。だが、それが絶対的に正しいとも思わない。イエスかノーしか選べない人間はぶつかるしかない。私のミニ運動会の時のように、持論だけ主張して決めるべきことすら決められないのは、ただの無能ではないか。
私は中学生の時の経験から、日本人は周囲の意見や雰囲気を見ながら全体の調整に長けた人種なのではないかと考えている。礼儀を重んじ、初対面の相手にはおもてなしの文化を持ち、また特定の宗教を持たないがゆえに、どの宗教にも親しみを持って接することができるのが日本人だ。たぶん語学力の絶望的な残念感さえなければ、もっと国際社会で重宝されている存在だ。これだけの才能を持ちながら…おしい。日本人、あまりにもおしい。
さて、昨今の国際社会を見ていると、日本人の調整力が必要なのではと思える出来事が多い気がする。例えば、中国の提唱する一帯一路計画だ。ユーラシア大陸を貫いて陸と海のルートを繋ぐ経済圏構想は、まさに現代のシルクロードと称して差し支えない。ヨーロッパも積極的に話を進めているし、韓国も流れに乗ろうと動いている。
日本は今までアメリカとの連携を重視する経済政策を進めてきたが、現状で経済が一番エネルギッシュなのはアジアだ。日本の経済を立て直そうと思えば、アジアのパワーを取り込むのは必須となる。問題は中国だろう。中国の覇権主義は軍事力や経済力にこれ見よがしににじみ出ているし、チベットやウイグルなどの自治区への人権侵害や恐怖政治は無視できない。はっきり言ってこれ以上の中国の力の膨張には危機感を持たざるを得ないが、日本が無視を決め込んでも一帯一路構想は進められるだろう。
むしろ、日本は中国の暴走を抑制し、是正するバランサーとして参加するという手がある。国際社会が一つのチームであるならば、やはり 日本も何かしらの役割を持つべきだ。日本人だからこそできる道をもっと模索すべき時代が来ている。