「明日を楽しみにしても仕方ない⁉」プロセスを楽しんで居心地のいいコミュニティを
ゴールデンウイークに田舎に帰省した。同級生たちと飲んだ時、気付かされたことがある。物事が前に進まないのは、結果に拘(こだわ)り過ぎているからではないか、と。結果ではなくプロセスを楽しむという発想。これがないと、人生を楽しめず、コミュニティの形成も進まないのではないか。そんな気がしてきた。
私の田舎は広島の山間部にある、典型的な過疎の町。飲み会では「こんなことをしたら町興しになるのではないか」と私が提案し、それを地元に住む同級生たちが却下する、というのが、お決まりのパターン。
・カット野菜を販売したらどうか
・メロディロードを作ったらどうか
・猪を捕まえて、その精肉を販売したらどうか
・城山にシンボリックな建造物を作ったらどうか
・町全体で介護に取り組んだらどうか
私なりに町のことを考えて提案するのだが、
「そんなことは他でもやっている」
「やれる人がいない」
「金がない」
と反論。最後には「じゃあ、お前が帰ってきて、やってみろ」という結論になる。
そりゃそうだ。実際、そこに住んでるわけでもない人間が、偉そうに提案したところで、無責任極まりない。 私も町会長として「ああしたらどうだ」「こうしたほうがいい」とよく提案される。人的問題、財政状況、過去の慣習…、もろもろの事情を知っているがゆえに、そうした提案が浅はかさであることはすぐ分かる。
提案は漠然と頭に描いている未来のイメージでしかない。Plan(計画)→Do(行動)→Check(評価)→Act(改善)を繰り返すことで徐々に夢に近づいていける。こうしたプロセスを経ずして、ついつい無い物ねだりをしてしまう。だから、何も進まない。
設計図を作って、材料を集めて、それを組み立てて…。人任せにせず、参画し、共に未来を作っていく。このプロセスを楽しめたら、それ自体が町興し、“コミュニティ興し"になるような気がする。 楽しむポイントは、否定しないこと。「その提案は、もっとこうしたらどうか」「こんなこともできるんじゃないか」と夢の輪郭をどんどん書き加えていく。
自然豊かで、縛りの少ない田舎町は、別の角度から見ると、可能性に満ちている。大資本による巨額投資で一気に発展する未来(結果)を描いても仕方がない。掘ったり、切ったり、植えたり…、自分たちの手であれこれデザインできる今をもっと楽しんだほうがいい。
所ジョージは「明日を楽しみにしても仕方ない。今日を楽しまなきゃ」みたいなことを言っている。 プロセスを楽しめない人は、いくらいい結果が出ても満足できないだろう。そんな人たちが作るコミュニティは居心地が悪いものになりそうだ。 結果ではなく「プロセス」、努力するのではなく「楽しむ」のだ。