言葉と人柄
使う言葉が人柄を決定する?
言葉と人柄は深く結びついている。厳しい言葉を使う人は厳格な人柄だと言えるだろう。非常に温和な人柄を持った人はきっと柔和な発言が多いはずだ。
人は考える動物なんて言葉があるけれど、やっぱり言葉がないと考えることも追いつかない。もちろん、感情は言葉とは違う次元にあるもので、言葉がないと感情がないとは言えない。沈黙は時に何かをしゃべることよりも多くのことを"語る"のである。
でも、その感情を出さないことで"語る"という文化は万国共通ではないのかもしれない。自己表現において東アジア圏よりも自由な他の国では"なんで黙ってるのよ!黙ってたら何もわからないじゃない!"なんてことも度々ある。
"日本人はいつもニコニコして何を考えているかよくわからない”
こんなのも海外でよく聞く日本人に対する評価である。もちろん、全ての日本人がそうではないけれど、おそらく多くの日本人が"日本人はシャイだ"という言葉に同調してくれるのではないかと思う。でも、どうしてそうなの…?
海外で生活して見て、ふと、自分自身と現地の多様な人々と触れ合いながら考えさせられる。
違う文脈で生きる人々
あれ?他の人たちにとっては自然なことが時に日本人にとっては不自然に感じることが起こる。例えば、色々と難しいことが起きて、自分が不利益を被ることになった時、何かと海外の人たちは大声でその不満をあらわにする。こういう言い方をするとなんと日本人は人一倍“しとやか”で“わきまえている”んだろうかと、肯定的に捉えることもできる。しかし、時に人はその逆の立場をとることもある。
“なんで日本人は自分の考えをあらわにしないんだ?まぁ、いいか。それだけまだ余裕があるんだろう。”と、精神状態ギリギリまで感じている不満や不快な思いを表現しないと、随分とまるでその環境を自ら望んで作っているかのような視線で見られる。どうしてこういう誤解が互いに生じるのか…。
一言で言ってしまえば、文化の違いなんだけれど、もう少し細かく説明すれば、自己表現、つまり自分の考えを言葉にすることに対する態度の違いではないかと思う。日本人の相手を配慮して自分の考えや思いを表にしないことに奥ゆかさを感じないわけではないけれど、その配慮というのを受けたことがない人たちにとっては相手を思ってやっていたとしても、結局自分の思いやりの表現が相手の文脈でキャッチできないものになってしまっているのだ。
“日本人は相手を思いやり配慮する人たちだ。”
その言葉を自分も肯定したいし、そういう価値観の中で生きてきたので、それが相手に通じないという歯がゆい思いを何度もしてきた。
雨降って地固まる
でも、“思いやり”の本質は相手を“思いやる”ことであって、自分なりの“思いやり”を相手に押し付けることではないはず。素晴らしい人格を持っているならば、それを言葉やあるいは態度でもって表現すること。自分の考えや思いを伝えていくこと。
また同時に、相手のことを聞くことも大切。まずは、相手の文化的な文脈を知ってどういった言葉で自分を表現して相手に見せてあげるか。これからそういうところにも関心をもっていかないといけないのではないかと思うのである。時にはぶつかって、時には感情をあらわにして、時には声を上げてその後もっと深い仲になるということもある。
“雨降って地固まる”多くの台風によって都市の排水機能が向上してきたように、数多の地震によって建築技術を絶え間なく発展させてきたように、これから人と人とのコミュニケーションにおいても“雨降って地固まる”将来の日本であってほしいし、そんな“日本人”でありたい。