コミュニティ チーム 家族 コミュニケーション 寄稿記事/取材依頼/お問い合わせ
はじめてあけたピアスの穴がすっかり落ち着いたら献血に行ってね
地域社会 2018.02.19

はじめてあけたピアスの穴がすっかり落ち着いたら献血に行ってね

ふと壁を見ると「人は決して、ひとりじゃないから。」というコピーの広告が献血ルームには貼られていた。献血にはとりあえず、定期的に行くようにしている。

きっかけは駅前で献血のお願いを呼びかけている人のあまりの必死さに心を打たれたからである。あちらこちらで見かける光景だが、その呼びかけのスタイルにはかなり個人差があるというか、あれは大幅に自由裁量権が与えられているのだろうか。

いつだったか雨が降る中、舞台役者かと思うほどに魂から「O型の血液不足」を訴える若者がいて、なにがそんなに悲しいのかと動揺するほどだった。結局、自分はO型でもないし、急いでいたのでスルーしてしまったが、その数日後にはじめて献血することにしたのだ。

血液は人工的につくれない、長期保存もできない

先日、めずらしく最寄りの駅で呼びかけていた。大雪とンフルエンザの流行のため血液が足りていないという内容だった。なるほどなと納得しながらも、残念ながら前回の献血時から次回採血可能になるまでの期間が設定されているので、心苦しいが素通りするしかない。

ボランティアの大学生なのだろうか。穏やかなアプローチで淡々と訴えかけていた。基本的なところはやはり2点、血液は①「人工的につくることができない」 ②「長期保存ができない」である。これにより献血事業を一手に担っている日本赤十字社は、自転車操業的な状況から抜けられない運命にあると言っても過言ではない。

採血中に、ぼーっと考える事

それにしても採血中に決まって考える事がいくつかある。まず「血液は人工的につくることができない」という事には正直、半信半疑なところがある。なんでもできそうなこの時代でもお手上げなのかと、人体とは繊細で奥深いものだなあと感じる。

そしてそれ以上に、かなり個人的な感覚なのかもしれないが、まれな血液を除けば、基本的に人類はA・B・O・ABの4型に分類できるという事に感動がある。

人というのは、こんなにも違っていて多様性に溢れているのに、性別や人種を越えてこの4つの型の血液で語れてしまう大雑把な在り方に、なんだか拍子抜けしてしまう。採血中はどうも世界が案外ゆるやかに構成されているような、そんな心持ちになるのは私だけだろうか。拒絶し合う他者同士であっても、癖の強そうな血液が、まるでガソリンスタンドの油種の違いでしかないかのように、受け入れられてしまうのだ。(もちろん拒否することはできるが)

血液の価値は

そして日本においては献血事業が「善意のボランティア」によって成り立っている事についても一段深く考えてみたい。かつては日本にも売血は存在していたし、アメリカでは今でも血液に換金性があるようだ。

これから日本は深刻な血液不足に陥ると予想されている。輸血を必要としている人は国内で1日約3000人いるそうだ。2027年にはその内の480人に血液を供給できなくなる想定だという。無償でダメなら換金性があっても血液の確保が優先されるべきだと考えるとこはできる。

確かな情報ではないが400mlの血液であれば赤十字と医療機関の間で2万円弱で取引されると聞いた事がある。手間がかかる成分献血なら7万円にもなるのだという。こんな話を耳にすると、人間急に色めき立つものである。それなら献血した側にも「いくらかの取り分」があってもいいのではないか、という気持ちになるのは理解できる。

「世界は多分 他者の総和」しかしお互いに欠如を満たす

例えば血液に換金性があり、A・B・O・ABの血液需要の変動によって刻々と上下するそれの「売り時」が、まるで仮想通貨のレートをスマホでチェックできるくらいにまで手軽になれば、血液不足は簡単に解消できるような気がする。もちろんそんな極端な状態にはまずならないだろうが、売血の危うさの本質はそこにあると考えられる。日本社会が克服したはずのステップに逆戻りするのはいかがなものかと思う。

倫理観念の向上は地道な積み重ねでしか得られないところがあると思うし、そう考えるとやはり「命を支えるボランティア」として、今まで築き上げてきた助け合いの精神によって美しく成立させ続けてほしい。

来たるべき深刻な血液不足を解消するためには、献血率を上げるための多角的な取り組みが必須である。それでも献血はリピーターによって支えられる傾向があり、少子高齢化が進んでいることを考えると、やはり10代後半から献血に関わる人たちが増えていく事が大筋の活路ではないかと思う。国内でまかなうのであれば、そこに頼るしかないはずだ。

血液は自分の体内のみを巡るものという観念から離れて、吉野弘「生命は」の詩の冒頭のように「生命は/自分自身だけでは完結できないように/つくられているらしい」という事に共感できる若い世代が増えていくと状況は変わっていくだろうか。「生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」である。

自分の意志で耳にピアスを開けられるくらいの大人になったら、献血のことも考えてみてほしいなと個人的には思っている。

この記事を書いた人 関口オーギョウチ 埼玉在住。サブカルやマイノリティがつくるコミュニティに関心あり。矯めつ眇めつそこに宿る魂に触れたいなと思ってます。 関口オーギョウチの記事をもっと読む>> 最新記事を毎日お届け
はじめてあけたピアスの穴がすっかり落ち着いたら献血に行ってね

この記事が気に入ったら

関連記事