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時を刻む
国際 2017.10.27

時を刻む

ケニアにやってきて2週間。
色々と違いが目につくけれど、一つの大きな違いは時間感覚。
日本ではまぶたを閉じて開けばもう次の朝…。次の瞬きの間にはお昼。気づけば夜と日ごと時間ごとに迫り来るようにめまぐるしく時間が過ぎていきました。同じ時間を過ごしながらもケニアでは時間がゆっくり流れるようです。なぜなのか一度、考えてみようと思います。

国民性

良いとか悪いとかではなく、ケニアでは時間を守るというか、時間に合わせて動くという習慣が日本と比較してあまりないようです。バスの時間表なんて見たことないですし、予定の時間を1時間ほど遅れることもままあって、イベントが長くなることもしばしば。
いつ終わるの?と時計を見てみたらすでに2時間過ぎていることも…。ちなみに、外国人が日本に来ると地下鉄やバスのダイヤの緻密さと、その通りに動く正確さに驚くと言いますが、国ごとに生きている時間が違うということなのかもしれません。そういえば、大阪には「イラチ」という言葉があって、比較的のんびりした時間を過ごせないセッカチな人種が多いですね。かくいう私も「イラチ」の一人です。同じ国でも地域によって多少差異があるのかも知れません。

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日本人にとって電車やバスのダイヤは人々の生活時間の基準となっています。自分自身、振り返っても学生の頃は何時何分の電車に乗らないと遅刻すると計算した上で、その時間に合わせて通学していたような気がしますせっかく早く起きた日もギリギリまで寝てしまった日も、電車のダイヤで帳尻を合わす。もちろん、コマ割りにされ徹底して時間管理される学校教育も時間を細かく管理する日本人の習慣に大きく影響しているでしょう。ところで、ケニアの自分が住んでいる地域ではそういった細かい「時間割」がない代わりに、教会の鐘が時を刻む指標となっています。朝の祈りの時間、昼休み、そして一日の終わりを告げる夕方の鐘が1日にリズムをもたらします。たまたま自分の宿所がカトリックの学校の近くにあるからというのもあるでしょうけれど、8割以上がクリスチャンであるケニアでは、この鐘のように朝、昼、晩ぐらいの大雑把な時間配分が時を刻む目安になっているとみて良いと思います。

私の時間の基準は何か?

ケニアと日本の人々の間で刻まれる時の違いとその基準について考えてみました。自分と違う時間を生きる人を自分の基準でもって批判したり、罵倒することは簡単です。その前に一度立ち止まって自分の時間の基準がいったい何なのか考えてみると面白いかも知れません。人生長くて80年、90年…。もちろん、これから寿命が伸びて100年を超える時がくるかも知れませんが、どれだけ長く生きるかが大切ではなくて、その限られた時間を何のために、どこに時間をかけたのかがより一層大切ではないでしょうか?

この記事を書いた人 山本眞之亮 人の成長に興味を持ち、教員免許を取得するも、目下ケニアでサバイバル体験中。最近、人びとが織りなす調和と変化の妙味に、宇宙の神秘を感じてます。
ブログ :成らぬは人の為なさぬなりけり
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