セネガル戦の前にちょっと頭に入れておきたいセネガル事情と「相手の目線に立つこと」
相手の目線に立つこと
こちらケニアでは冬を迎え、コートが必要なほどではないけれど、日によっては薄手の上着がなければ肌寒さを感じる季節になってきました。同じ6月も場所が違えば何から何まで違うものだと驚きます。
ところで、先日訪れたアフリカのセネガルの体験を踏まえて、一つ筆をとってみようと思います。同じアフリカであっても、東の端にあるケニアと西に端に当たるセネガル。どういう違いが見られるんでしょうか?
気候の違いインフラの違い
まず大きく感じたのは気候の違い。普段ナイロビで過ごしている自分にとっての「アフリカ」は年中あまり気温が変わらず、過ごしやすい。もちろん、雨季には雨が降るので、比較的湿潤で緑が印象的な豊かな自然に囲まれた大地といったところ。
ところが、セネガルは上空から見ても乾ききった砂色の大地。特に首都ダカールは海辺の町で、浜風が強く砂埃が舞い荒ぶ。この渇いた土地に一体どんな植物が育つんだろうかと不思議に思うほど。
しかも上水がある程度発達しているナイロビ市内の生活に慣れている自分にとっては、セネガルのダカールから少し離れた郊外の宿所周辺で営まれている井戸水生活には驚かされました。
ナイロビは前日まで雨季だったこともあって、緋色の鬱屈した日々を思い浮かべますが、セネガルは雲も少なく清々しいほどの空色。道路も舗装されておらず、車もありますが、田舎では馬車が目立ちます。
ズボンに穴が空いた子供達が馬にムチ打ち砂ぼこりの中、過ぎ去っていく姿は少し滑稽に映りました。
文化の違い
一歩踏み込んで、ハード面の違いからソフト面の違いも見てみましょう。
ケニアにはイギリスの入植に合わせてインドからも人々が来ていますので、ヒンドゥーやシーク教という日本人にとっては少し馴染みのない宗教や、海岸沿いは中東からやってきたムスリム文化影響を見ることができます。でも実際は全国民の8割ほどがクリスチャンが占めるキリスト教文化圏。
対して、セネガルは街を歩いていると中東かどこかと見違えるほどの砂漠町で、なんと宗教も9割以上がムスリム。訪問した時期がちょうどラマダンに当たったこともあり、日中はお店が開かず、人口の数%程度しかないクリスチャン家庭にとって、生活に支障が出るほどの影響があるとかないとか。
そんなソフト面からくる違いによって現れてくる社会問題もまた、日本のものとは随分と違ってくるんだなぁと。
少子化問題を叫ぶ日本ですが、ケニアでは青年が人口の半数を占め、その人たちの職がない。セネガルでは日本では見かけない一夫多妻も、珍しくないです。
「私」の常識がその地での常識としてこれでもかというほどに通用しない世界。日本とアフリカだけで随分違っていたと思っていましたが、アフリカの中でさえも、沢山の違いを見つけることができました。
相手の目線に立つには
ところで、相手の目線に立つには二つのステップが考えられます。一つ目は相手のことを理解すること。
これって案外難しいんだなってことがよく分かりました。
イスラム圏に入って初めて彼らにとっての当たり前がなんなのか、彼らの考える常識はどこにあるのか、考えるようになったし、それまではそもそも想像すらしたことがなく、ムスリムといえば、教科書に出て来るもの、ニュースに出て来るものだと思っていました。
この状態で何を判断しても結局、自分の立場からの判断しかできないのかもしれないです。
二つ目は相手のことを十分にではなかったとしても理解する努力をしたうえで一度自分を相手の立場に置いてみること。
実はどんな人もその人なりに一生懸命考えて、その人なりに一生懸命生きているはずです。でもそのプロセスを踏まないと知らないうちに簡単に「この人何考えてるの?」「どうしてそんなことができるの?」とこちら側から判断してしまいます。
当り前のようだけれど、相手のことを理解しようと努めてみて、その相手の立場から物事を見つめてみたときにようやく大人として人に対すことができるようになるのかなと思いました。普段の目線について改めて見つめ直してみるのもいいかもしれませんね。