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バングラデシュで苦悩し「譲れない価値観と決意」に辿り着いた京大生の話
コミュニケーション コミュニケーション 2018.07.06

バングラデシュで苦悩し「譲れない価値観と決意」に辿り着いた京大生の話

バングラデシュ。この国の名前を聞いて何を思い浮かべるだろうか。多くの人にとっては、聞き慣れない国かもしれない。途上国に興味がある人は、この国の「アジア最貧国」という呼び名を聞いたことがあるのではないだろうか。しかし、それ以上はほとんど何も思い付かない人が多いと感じる。かく言う私も、それまでその地に何の縁もゆかりもなかった。そんな国が私を大きく変えることとなる。

バングラデシュ① ■バングラデシュ第2の都市チッタゴン市

知識ではなく生の経験を得たかった

私は大学で土木工学を専攻している。その中でも、特に途上国のインフラ整備に強い関心があり、将来は、建設コンサルタントやゼネコンでインフラ整備の技術者として働くつもりだった。

ところが、大学2年生の秋、私は授業が頭に入ってこなくなっていた。その夏、NPO道普請人によるケニアスタディツアー参加を通じて、貧困や高失業率など課題が山積みな途上国のありのままの現状を目にし、大学で決められた内容を受動的に学ぶ意味に疑問を持ち始めたからだ。

NPO道普請人

大学3年生修了時に必要な、土木工学という広い学問の中での専門分野を選択する期限が残り1年半と近づき、大学の授業はどんどん専門的になるものの、ここで教えてくれるのは、決められたものをいかに安全に経済的に建設・維持するかばかりだと感じた。

もっと、どんなインフラが途上国に必要で、それを作ればどう人々の生活が変わるのかを本気で知りたかった。いや、ただ目で見て、肌でそれを感じたかっただけかもしれない。

知識は得ようと思えば、授業だけでなく、本やインターネットからも得られた。だが、私はそのような知識以上に、これからどこに向かって生きていくのか。それを決める決意のようなものが欲しかっただけかもしれない。

だから、他人の意見や教科書の中の知識ではなく、自分が途上国の地でもっと様々なものを目にし、経験することで、何を感じるのか、それが知りたかった。気付けば、インターネットで「海外 インターン」と検索していた。

バングラデシュ② ■ケニアで道直しの手伝いをしたときの写真

そこで見つけたのが、経済産業省国際即戦力育成インターンシップ(現「国際化促進インターン」)であった。こちらは主に途上国に学生や社会人を数カ月から半年間派遣し、現地でインターンシップに従事させる事業である。

国の選択肢はアジアから南アメリカ、アフリカ、東ヨーロッパと多岐に渡り、さらにそれぞれの国に多種多様な派遣先の選択肢があった。その中で、学士号すら持っていない私を受け入れてくれる途上国のインフラ関連機関が、幸運にもバングラデシュの第2の都市チッタゴンで2つ見つかった。

1つはチッタゴン上下水道局(Chittagong Water And Sewerage Authority、以下CWASA)。もう1つが、私が派遣希望機関に選んだチッタゴン都市開発公社(Chittagong Development Authority、以下CDA)であった。できるだけ貧困の厳しい国の現状を見たいとちょうど思っていたので、アジア最貧国として知っていたバングラデシュは派遣国として最適だと思った。

CDAはCWASAともつながりがあり、かつ様々な種類の都市インフラ整備をするだけでなく郊外のプロジェクトをも管轄している。2つの中から後者を選んだのは、できるだけたくさんの種類のインフラ整備現場を目にすることができ、専門性選択の際の手がかりを得られると考えたからだ。

その中で私は、バングラデシュのCDA(Chittagong Development Authority)というバングラデシュ第2の都市であるチッタゴン市の都市開発を管轄する公的機関を派遣希望機関に選んだ。アジア最貧国呼ばれて久しいこの国の人々の生活やインフラを取り巻く環境こそが、自分が最も飛び込みたい環境だと考えたからだ。無事選考を通過した私は、大学3年の後期を休学し、晴れてバングラデシュで半年間インターンシップをすることとなった。

充実感と自分についてきた嘘

現地では主に都市開発中長期計画案改定や、進行中のプロジェクト進捗状況確認、新規プロジェクト地視察といった業務の補佐をした。何か仕事をするというよりは、ぜひ勉強の機会にさせてほしいと伝えてあったので、たくさんある都市開発プロジェクトの中から興味を持った案件の担当者についてまわり、勉強させてもらっていた。

例えば、市の中心部での高架橋建設、幹線道路拡張工事、郊外での住宅街整備などである。そうして充実した日々を、バングラデシュという新天地で送り始めていた。ところが、自分の中でいつしか「果たしてこのままでいいのだろうか。これが本当に今ここでしたかったことで、将来もこういった途上国の都市インフラ整備に関わることがしたいのだろうか。」

という問いが沸き上がるようになり、それを徐々に無視できなくなっていった。来る日も来る日も頭の中で同じ問いを繰り返し唱えていた。それはあることがきっかけで、これまでずっと自分自身に嘘をついていたことに気付かされ、考えが揺らぎ始めたからであった――。

バングラデシュ③ ■チッタゴン市中心部の高架橋建設現場

自分を騙すためについた嘘

バングラデシュに来る前から、実は薄々気付いていた。都市インフラの整備は、その都市、ひいては国全体が経済的に発展するための基盤を作るが、経済的・社会的弱者はその発展から取り残され、その恩恵を直接的かつ即座に受け取ることはない。

そうなるまで果たしてどれだけの月日が必要だろうか。2、3年などという短い時間ではない。どんなに短くても十数年、大抵の場合は数十年であろう。ましてやアフリカの国々のように国際社会が援助・開発に本腰を入れて半世紀が経ち、その中で都市インフラが次々に整備されている国ですら貧困削減はまだまだ終わって終らず、依然その道のりは遠い。

したがって、チッタゴン市において同様に都市インフラを整備したとしても、待てど暮らせど貧困層の生活が一向に改善されないということが十二分に起こりうるのは目に見えていた。そうこうしているうちに、世代をまたいだ貧困の連鎖が続いていくのだ。

バングラデシュ④ ■新マンション建設(写真右奥)に伴う道路整備予定地の土の上で、タイヤのおもちゃで遊ぶナイロビのスラムの子供

こうしたことを考えていながら、私は自分に嘘をついていた。インフラ整備以外のアプローチによる貧困削減には興味がないと。また、目の前にいる彼らの「いつか」ではなく「今」を良いものにすることには興味がないと。ケニアやインドネシア、フィリピンの都市部などで現実を目にすればするほど、雇用や食糧、教育、衛生など同時に解決すべき他の課題の重要性も感じ、何かしたいとは思うものの特に何もしてこなかった。

何かし出すことで責任が生じ、投げ出せなくなるのが単に怖かったからだ。そして、何よりも問題を直視して解決しようと自分が専門性を待たない分野でもがいたところで、何も現実は変わらず結局無力さを痛感させられるだけに終わるのが怖かったからだ。そうして、「いつか」専門性を身に着けて、彼らの生活が「いつか」良くなるためのインフラ整備をするのがしたいことで、今はその専門性を磨くことだけがしたいのだと自分自身を騙し続けていた。

しかし、この嘘にも次第に耐えられなくなっていく。毎日幾度となく目にするストリートチルドレンの存在がそうさせたのだった。

自分と「彼ら」を隔てる「見えない壁」

実は私が途上国の貧困削減に強い関心を持ち始めたきっかけも、大学1年の終わりにマニラで出会ったストリートチルドレンであった。それまでも、知識ではそういった子供たちがいることは知っていたが全く興味はなかった。自分が興味を持ったところで、何も変わらないし、むしろ悲しい現実に気付いて自分が不幸になるだけだと思ったからだ。

ただ、目の前で彼らと目が合った瞬間、はっとさせられた。その子供たちも自分と同じ1人の人間だと痛感したからだった。彼らにも自分と同じように食べたいものがあって、将来の夢もあるはずだ。

しかし、日本のような先進国で何不自由なく日々を過ごし、食べたいときに食べたいものを食べ、どんな夢も努力次第で叶えられると思ってずっと生きてきた自分との間には、「見えない壁」があるように思えた。生まれた環境でこうも人生が異なるのかとがく然とし、世界の不条理とそれが当たり前のように存在する日常に強い失望と違和感を覚えた。そして、同時にこの感情を決して忘れないと胸に刻み、この「見えない壁」を打ち壊すために自分は土木工学を学ぶのだと誓ったのだった。

「いつか」と目の前の「今」

もちろん、私はバングラデシュの地でも、あのときの感覚を忘れてはいなかった。しかし、自らの無力さを突き付けられるのが怖くて、何もできていなかった。ところが、そうし続けるのにも限界は近かった。1日何回もストリートチルドレンや、彼らだけでなく大人や老人にも自分の生活圏内の至るところで物乞いされていた。

その度に慣れるどころか、素通りする自分に後ろめたさを感じ、その強さも増していった。こうした人々の生活を少しでもよくしたくて勉強してきたはずなのに、今の自分には何もできていないことに嫌でも気付かされ、自分のしていることや学んできたこと、自分の存在すら無意味に思え始めた。

「いつか」のより良い生活を実現するインフラ整備か、「今」の彼らの生活を少しでも良くする草の根での貧困層支援か、どちらが自分のしたいことなのか分からなくなっていた。そして、CDAという都市開発機関でインターンをしながら、「本当にこれでいいのか、本当にこれがしたかったことで将来もしたいことなのか、本当にこれが自分の生きたい人生なのか」という出口の見えない自問自答を繰り返していた。

そしてあるとき、こう思うようになった。自分が今、何も行動しなければ今後も一生、目の前にいる貧困層に対して自らが抱く感情に気付きながら、自分をだまし、行動を起こさない、いや起こせないまま終わるだろうと。今、自分は人生の岐路にいるのだと。リスクを取らないことそのものがより大きなリスクであると。そして、「今」、行動に移すことを決めた。

ところが、現実はやはり甘くなかった――。

バングラデシュ⑤ ■夜遅くまで物乞いをしているストリートチルドレン。帰る家が無く、路上で夜を明かす子供たちもいる。

新たな出会い

行動に移すと決めた私はまず、ストリートチルドレン達とコミュニケーションをとることから始めた。彼らのことを知らずには、意味のあることは何もできないと思ったからだ。少しでも知れば、ほんのわずかでも彼らのためになるようなことができると思っていた。ところが、その考えは甘かった。実際は、知れば知るほど、自分の無力さを突き付けられ、ますます現実から逃げ出したくなるだけであった。

そんなとき、2つの出会いがあった。1つは、上水道整備プロジェクトである。水は生きていく上で必要不可欠である。ところが、バングラデシュのように安全な水が安価で安定的に手に入るとは言えない場所では、貧しい人々はときに、安全とは言えない水を利用している。

したがって、貧しい人々が簡単に安全な水へアクセスできるようにする上水道整備は、貧困層の人々の生活の質を向上させるインフラ整備だ。そして、それは他のどのインフラ整備よりも、貧困層の生活の質を「いつか」ではなく「今」良いものにできるものだと、私は思った。インフラ整備を通じて、本当に自分がやりたいことができると気付いた瞬間だった。そのとき初めて、これまでの自分の道のりは決して間違いではなかったと思えた。

バングラデシュ⑥ ■水道管を新設する工事現場

もう1つは、少数民族向けの子供寮である。少数民族は歴史的に排斥されてきたため、経済的に困難な家庭が多い。その寮ではそうした家庭から子供を預かり、学費や生活費を肩代わりし、教育を受けさせている。少数民族の社会的地位を向上させようというこうした活動がある一方で、ときに彼らの家が焼き払われるなどの悲しい事件もいまだに起きている。

そんな事実を知り、また子供たちの眩いばかりの笑顔と目の輝きを目にしたとき、何か力になりたいと思った。話を聞けば、これまで寮から大学に受かった学生が出たことはなく、また高校進学率も高くないそうだ。そこで私は週1、2日補習の先生を務め始め、彼らが苦手な数学や英語の補習を重点的に行った。

さらに、復習の習慣がない、疑問点があっても先生に質問しないなど学習態度にも問題があったため、あるべき学習態度が定着するまで繰り返し指導した。加えて、私の日本帰国後も継続的に教育の質が改善されていくように、現地の有名大学に通う少数民族の大学生を、私費で雇うことにした。

バングラデシュ⑦ ■子供寮の隣の仏教寺にて子供達と

譲れない価値観と決意

「自分は何をしたいのか」、「どんな自分になりたいのか」、「これで本当にいいのか」といった自らの本心から発せられる問いに耳を傾ける。そして、悩みながらも試行錯誤を重ねながらも、それらへの自分なりの答えを探していく。こうして得た答えが、自分にとっての「正しさの基準」であり、これこそが自分の譲れない「価値観」になる。バングラデシュでの半年間を終えて、私はそう強く思うようになっていた。

また、私は決意も新たにしていた。バングラデシュ渡航前は、技術者として途上国のインフラ整備に関わる仕事しか頭になかった。しかし、技術者になるために考えていた院進学をやめ、総合商社に入ることを考え始めていた。そう考えるようになったのには、大きく分けて2つの理由がある。

1つ目は、技術者になった場合、インフラ整備外の社会課題にアプローチをするのが難しくなるからである。ところが総合商社であれば、異なる分野のビジネスを行う部署が社内に多数存在している。そのため他部署との協力を通じて、雇用創出や衣住食・ヘルスケア・教育環境改善等のインフラ整備以外の課題にも、ビジネスを通じて取り組むチャンスを創り出せると思った。

2つ目は、日本のためにもなる仕事がしたいという気持ちが芽生えたからである。社会課題は、当然途上国にのみ存在しているわけではない。これから日本は、経済成長鈍化、高齢化社会、地方の過疎化、格差拡大といった社会課題がますます深刻化していく可能性が極めて高い。そして、今の当たり前の生活の質が当たり前ではなくなる日が、そう遠くないうちに訪れるかもしれない。

日本帰国後、日本で当たり前のように享受できる生活の質の高さに改めて有難みを覚えていた私は、日本国内の問題にも目が向き始め、何とかしたいと思い始めていた。総合商社は戦後から高度成長期そして今日に至るまで、我々の生活に欠かせないエネルギー資源や、食糧、鉄鋼、衣料品などありとあらゆるものの安定的な供給先開拓と輸入業務、日系企業の海外進出支援などを通じて、日本の発展に貢献してきた。

その結果として、私たちの生活の質は現在のような水準まで上がり、また継続的に守られてきた。したがって、総合商社でなら途上国のためだけでなく、日本のためにもなる仕事ができると考えた。

こうして、将来はインフラの技術者になり、途上国でインフラ整備に携わることしか考えていなかった私が、「途上国の貧困を総合的に解決し、同時に日本のためにもなるような仕事をするため」に総合商社に就職することを決意した。

今もこれからも、「そんなこと無理だよ」、「偉そうに言ってるけど何もできていないじゃないか」など色々思われるかもしれない。だけど、それでいい。批判を受けることも、恥をかくことも承知である。それが本当にしたいのなら、してみればいい。誰かの価値基準ではなく、自分の価値基準で生きたいように生きればいい。なぜなら人生は他の誰のものでもなく、自分のものだからだ。

そう思える勇気を私にくれたのが、バングラデシュでの半年間だ。自分を見つめ直すとき、度々バングラデシュの景色が目に浮かぶ。そうして、気付いた。どこかの遠い国が、いつの間にか私にとってとても身近な国になっていた。

バングラデシュ⑧ ■リキシャ(自転車タクシー)の渋滞

◆文中のバングラデシュの子供寮(Mahamuni Children Center)の支援にご関心がある、またはもっと私の話を聞いてみたいという方は、是非お気軽にFacebookにてご連絡下さい。 石井 達規 

寄稿元:worlli

この記事を書いた人 ISHII Tatsunori 考えるのと喋るのが好きな理系京大生。総合商社内定者。社会問題解決に強い関心があり、就職後も活動を仕事内外で継続予定。変わっているとよく言われるが、褒め言葉だと思っている。気分屋。 ISHII Tatsunoriの記事をもっと読む>> 最新記事を毎日お届け
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